家族の視点―鐘ヶ江寿美子(あぁゆるプロジェクト・メンバー)
長寿社会の今、老年期は長期化している。健康状態が悪化し、介護が必要となる期間を、評論家の米沢慧氏は「老揺(たゆたい)期」と名付けている。
貝原益軒の養生訓によると、いのちのすがた・かたち(身)は、耳(聴く)、目(見る)、口(喰う)、鼻(嗅ぐ)、形・頭身手足(動く)であらわされる五官と、二便(小便・大便)および洗浴という(いのちの)役割や機能で表現される。
老揺期はその五官のバランスが揺らぐ時期を指し、「認知症」は五官の衰退の典型(シンボル)といえる。
私は在宅医である。老揺期の患者さんやそのご家族、高齢者施設の職員の方々に接し、認知症による心理・行動の症状=BPSD、家族介護と施設介護、各々の難しさを現場で見てきたつもりであったが、家族が認知症となり、老揺期のケアについて認識を新たにしている。
私の母は70歳代後半で、昨年秋までは自宅でほぼ自立した生活を送っていた。しかし胸椎圧迫骨折を受傷して入院。下肢の麻痺や排泄障害を呈し、一時寝たきりとなった。さらに入院後、強い幻覚と妄想に襲われた。深夜に「知らない場所に移されたから助けに来てほしい」、「ベッドに犬小屋をたてられた」と携帯電話で私に連絡してきた。以前から軽いパーキンソン様症状もあり、レビー小体型認知症と診断された。BPSDは日常診療で見慣れているが、認知症は進行性の疾患であると知るが故に、過去の母親には会えない喪失感を抱いた。一種の事前悲嘆のような感じで、これは父が進行がんと宣告された際に抱いた感情と類似している。
杉山孝博氏は認知症の人の家族は①とまどい・否定②混乱・怒り・拒絶③割り切りまたはあきらめ④受容という心理的4ステップをたどるとしている。認知症ケアは「寄り添う」ことが大切とされるが、家族は認知症につきあう心身の疲労だけでなく、親や配偶者が変化していくことに対する悲哀も大きいことを実感した。この思いは、家族ではない介護者や医療者は抱かない感情で、だからこそ冷静に寄り添え、場合によっては家族よりも適切な「身寄り」になれる可能性も再認識した。
フランスの哲学者ジャンケレヴィッチが死を、「一人称の死」(自分の死)、「二人称の死」(近親者の死)、「三人称の死」(他人の死)と3つに分類したが、認知症にも人称をつけると、「三人称の認知症」(他人の認知症)と「二人称の認知症」(近親者の認知症)は意味が大きく異なる。「一人称の認知症」すなわち認知症の人の思いはいかばかりであろう。
母の場合、抗認知症薬が開始され、幻覚と妄想は消えた。術後のリハビリも進み、歩行訓練をしている。本人にベッドの犬小屋は幻覚であり、一連の妄想も実際にはなかったことを説明し、認知症であることを告げた。その際、認知症は加齢に伴う病であることを言い添えた。数分の沈黙後、「私は地獄も見たよ」と術前に見た幻覚を話してくれた。そして、「ということは、私は同じ年齢の人より、ちょっと早く認知症を体験したということね」と少々自慢気に言い、心配してくれた姪に「レビー何とかという病気らしい」と自ら説明した。
米沢氏は老齢期のケアにはファミリー・トライアングルが重要だと提唱している。当事者の3人、つまり患者(A)―家族(B)―専門家(C)が三角形・鼎のかたちになり、その構図とポジショニングの自覚が大事であり、コーチングとアイ・コンタクトができる関係がトライアングルに収まっているということだ。我が家のケースを米沢氏に相談したところ、家族(B)と専門家=医師(C)を同一人が便宜的につかいわけることは難しく、私(筆者)は身内の立場にたって、医師の役割を他の人にゆだねる、「それこそ「ぼけてもいいよ」というポジションがとれたらいいですよ」と温かく、実践的なアドバイスをいただいた。母の疾患は主治医にゆだね、母の老揺期をともに歩む日々を送っている。
<いのち>は医療や介護の視点だけでは深く考えることはできません。では、どこから始めたら良いでしょうか。
評論家・米沢慧氏は<いのち>について、医学のみでなく、心理社会的背景、例えば歴史、文化、経済等、広い視野でとらえ、著書からは高齢社会、自然死、ホスピス、介護等について興味深い考え方を知ることができます。その著書やブログをご覧になられたらいかがでしょうか。
米沢慧 (よねざわ けい)
■1942年島根県生まれ。評論家。早稲田大学教育学部卒業。
都市論、建築論、家族論から介護論まで。
■編集者時代に岡村昭彦に出会い、岡村の運動を支え、没後もその遺志を継いで運動をつづけている。「AKIHIKOゼミ」主宰。岡村昭彦との関わりについて
「出版編集者としての出会いと失敗、その後はフリーランスとして〈人生棒に振っていいという生き方がある〉ことを教わった気がします」
■近年は長寿社会のケアを考える「ファミリィ・トライアングルの会」を主宰。
活動の一環として、東京・千葉・長野などで生命・看護・医療を考えるセミナーにも取り組んでいる。
■著書に『「幸せに死ぬ」ということ』『ホスピスという力』『往きのいのちと還りのいのち』、在宅ホスピス医 内藤いづみさんといのち・ホスピスについて交わした往復書簡『いのちのレッスン』、『自然死への道』(朝日新書)、『病院で死ぬのはもったいない〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』(春秋社)。
◆blog◆
米沢慧のブログ:いのちことばのレッスン
http://yoneyom.blogspot.jp/
◆最新著書◆
『いのちを受けとめるかたち―身寄りになること』
http://mokuseisya.com/pg424.html
『市民ホスピスへの道 ―〈いのち〉の受けとめ手になること』
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-36540-3/
◆勉強会◆
福岡県にのさかクリニックのバイオエシックス研究会では米沢氏を講師に迎え、定期的にセミナーが開催されています。その内容は九州医事新報に掲載していますので、ご覧ください。
http://k-ijishinpo.jp/mtos/mt-search.cgi…
「たとえば朝起こしにいったら死んでいた場合、(主治医の)先生に電話したら来てくださいますか?」
「医院が開いているときは出られないし、また急に行っても死亡原因がつかめるかどうかも含めいろいろの問題がある(死亡診断書は書けない)」とのことでした。
いつもかかりつけている医院がこうですので土、日などに当たった場合などは…。
Dr.スマート曰く「往診してくれる医師を探して頼んでおくことです。もちろん、かかりつけ医を変更するしかありません。」 在宅で死亡した場合、主治医が死亡診断書を書いてくれれば何も問題はありませんが、今の主治医は死亡診断書を書いてくれそうもないので、お母様が生きている間に死亡診断書を書いてくれる主治医を探しておきましょう。 また,亡くなった後に救急車を呼んだら,警察が来るそうです。(救急車は亡くなった方は乗せてくれないのです) こちらもご参考にどうぞ→ 家族が自宅で亡くなった時に救急車を呼ぶと、遺族はさらに辛い目に遭う
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